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ソウルメイトへのラストメッセージ

キミが居なくなって7ヶ月経った昨年末、漸くご家族のみなさんにお会いすることができた。そして、昔の仲間たちとも。 四半世紀ぶりにキミを偲んでキミの曲をみんなで演った。 キミの歌はどうやら難しいらしい。なんだかんだで四半世紀の間も事あるごとに耳にしていたキミの曲は私には全く時空の概念がなく、スタジオで奏でる感触は昔のままだった。 集ったみんなは久しぶりの演奏だったけど、すぐに昔の感覚を取り戻していた。2曲だけなんとか形にするところまで何度も演奏した。 楽しかったな。もっとしんみりするかと思っていたけど、演り始めてしまうとみんなのめり込んでいたよ。 25年経ってキミの曲をその時の仲間たちと演ることでキミとの音楽遍歴は一区切り、と思いきやみんな音楽好きなんだな。また再会することになってる。残念ながらボクは行けないけど。。。 キミの曲に♪ああ、キミよ、よみがえれ♪という歌詞がサビのREVIVALという曲があったけど、みんなのミュージックソウルをよみがえらせたようだ。 the casualsの大事なメンバーとも久しぶりにやりとりできた。 キミのおかげだね。ありがとう。安らかに。

ソウルメイトとの音楽遍歴⑱

 今更だけどキミと一緒にレコードやCDを一日中探す日々はもう来ない。そして、キミと呑みながら音楽観を語ることもまたままならない。 これまでも触れてきたけど、この20年でボクはすっかり音楽に対して保守的になってしまっていた。キミに教えてもらったものの耳に残る一部だけを残して、意欲的に音楽を聴くことをやめていた。 どんな感じかというと、まずライブに行かなかった。最後のライブ鑑賞はジーラブだった。 レコード屋さんにも行かなくなった。これはiPodを手に入れてmp3、iTunesライブラリーにストックが移行したことが大きいかも。ボクは2005年に全て切り替えている。 つまり、キミからのレコメンドがなくなった上に、レコード屋さんで無作為に入ってくる情報がなったことが重なって、iTunesで自分から検索しないと新しい発見が出来なくなった。そしてその状態を甘んじて受け入れたのだ。 また、YouTubeはますますボクを保守的にさせた。何故なら、過去の名演奏が沢山見られるようになり、大画面で見ればさながらライブのように感じたからだ。 そして、ベースは物置に約8年眠らせた。子どもがうまれた狭い我が家では危なかったからだ。これが最も決定的かもしれない。 ボクは10年前に自宅を手に入れ、楽器を置けるスペースが出来た。それを機にベースやギターの封印を解き、それに前後して仕事仲間のおかげでベースを再び弾くようになった。 不思議なものでベースを弾くと音楽の聴き方が変わるのだ。真似したいフレーズ、心地よいベースラインなど、ベースから音楽を愉しむのだ。 キミと出会ってベースを始め、そこからボクの音楽もまた始まったんだ。振り返ってみて気がついたよ。 キミが居なくなってキミのことを振り返ると同時にボクの音楽遍歴の振り返りにもなった。先生と生徒って思っていたけど、キミはいつもアンテナ張って様々な音楽に触れていて、というか学んでいて、一緒に音楽をやる仲間として教えてくれていたのかな。 おそらく、神戸でも周りの人に自分の音楽観を伝えて、好きな曲とその蘊蓄を語っていたんだろうね。 それはキミが歌っている taquibeを聴いて そう思った、というか安心したよ。あ~ボクの知っているキミだ!って 音楽を教えてくれてありがとう。 昔ほどではないけど、自分の好きな音楽へのアンテナをボクなりに貼り直してみるよ。

ソウルメイトとの音楽遍歴⑰

キミが居なくなって1年が経ってしまった。このシリーズもエピローグにむけてまとめよう。 キミが渡英してボクは音楽への探求を結果的に止めてしまっている。音楽を一緒にやらなくなり、物理的距離が出来、キミから「これがええで!」ということが無くなったのと、ボクもベースラインを追い求めなくなったからだ。それからは数年に一度再会することになって、それまで色んな音楽を教えてくれていたのと変わって、イギリスでの自分の作品の感想を求められるようになった。その時からは先生と生徒というより、ミュージシャンとそのファンという関係に変化したと思う。だから21世紀以降にキミが何を良くきいていたか、趣向は何だったのかあまり分からない。 とはいえ、振り返るとバンドと個人の2つの音楽が並行していくスタイルは変わらなかったのではないかと思う。そしてそれは渡英後も続いた。キミが結成したAPESはメンバーがパンクやりたいっていったからパンクの曲を書いてロンドンでのキャリアをスタートしたと話してもらった記憶がある。あれほどブラックミュージックに傾倒していたのに、何で?何があったの?と聞きたくなるぐらいの方向転換。多分それでしか音楽を続けられなかったのかもしれない。さまざまな出逢いの中でそれがエアロプレインというバンドに変遷し、プロデビューする。ある意味ボクと知り合った当初のキミはパンクだったから原点回帰だったのかもしれないね。その一方で、聞かせてくれた未発表曲のなかには弾き語りに近い構成のものがあったりしたので、バンドとは別の自分の曲を模索していたのではないかな? その後、スペインとコロンビアというラテンの国に行ってからは演奏を通じて現地のミュージシャンとの交流を深める。ジャンルは様々、要求されたものの演奏をしていたようだ。そして腕の良いミュージシャンたちと知り合い、バンドと個人の融合しMuerte En Pereiraを完成させたのではないだろうか。ポップとロックと、ジャズと。ギターとサックスとドラムという変わったバンド編成もユニークだ。 スペインやコロンビアの経験と帰国後の神戸の音楽シーンで感じる音楽観の違いなどがキミの活力の源になっていったのだと思う。これはYouTubeやラジオで語っていたり、酒を酌み交わす中でキミが夢を語りつつ、悩みを吐露していたことからの私の解釈。 キミが居なくなってから、ラジオや

ソウルメイトとの音楽遍歴⑯

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  98年から99年のキミの東京生活の終わり頃はフリーソウルという言葉が二人のトレンド。前回でもふれたけど、この頃にレコードレーベルごとの特色を語っていて、キミがのちにレコードレーベルをやるルーツがあったのだろうと思う。 1番好きだったのは Stax というレーベル。Atlanticも良く聞かされたな。Motownは有名だけど、こっちが好きって言ってた。 フリーソウルと言えばカーティスメイフィールド、アルグリーン、マービンゲイ、ドニーハザウェイ、などなど。ボクのお気に入りはアイズレ―ブラザーズのフリーソウルアルバムだった。 カーティスメイフィールドはすでに前回取り上げた曲があるので、今回は こちら 。 アルグリーンはグリーンの色をした限定版をキミは持っていたね。 Let's Stay Together はいまでも聴いているよ。マービンゲイは What's Goin'on もだけどボクは Let’s Get It On が好き。

ソウルメイトとの音楽遍歴⑮

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  97年になるとウェラーの他に良く名前が出ていたのは ジーラブアンドスペシャルソース 。ブルースとフォークとヒップホップを混ぜた今までにないオルタナティブなのに3ピースというシンプルなバンド。これは渋谷のライブに行くほどの熱の入れようだった。当時のキミがやりたい?マネしたい?わからないけど、ポールウェラーよりもミーハーなリアクションをしていた印象がある。 Casualsのアルバムにもジーラブのオマージュ曲がある。オマージュした原曲は This Ain't Living でキミの曲名はSo In Love。あれ?ALLのLiveでも同じ曲名がありますねぇ。…けど曲は全く違います。この So in loveという曲名はフリーソウルの元祖的存在、カーティスメイフィールドの名曲 、これはキミの大好きな曲でよく聴いていたね。ジーラブを好きになったころからシンプルなリフを繰り返してグルーブに重きを置く「大人な」感じになっていった。 ジーラブを教えてもらってほどなく新譜が出た「 Yeah,it’s that easy 」だ。そして是非ベースの参考にしてほしいと言われたのがこのアルバムの Pull The Wool という曲の3:18あたりからはじまるCメロ、あ~これ聞くとキミとベースを弾いた日が走馬灯のようによみがえる。これを書くにあたって実に数年ぶりに聴いた(あ~音楽は聴いていたのに、どうしてこの曲が久しぶりなのか・・・)。ボクのこのアルバムの一押しはベタですが Stepping Stones 、キミはジーラブのビートルズバージョンって言ってた。 とにかくこのジーラブについてはドラムンベースを絶賛していて、二人のお気に入りはキミの好きなドラムのハウスマンが歌う Kick Drum 。この曲が入っている アルバムはこれ 1999年にリリースされた。このアルバム Redeo Clowns というジャックジョンソンとのコラボの名曲が出てくるね。 ジーラブがらみのエピソードは、渡英した後4年ぐらいして再会したとき、webで公開されていたライブの様子を写した動画を見てジーラブが英語で冗談を言っているのを見てケラケラキミが笑っていたのに英語が分からないボクは物凄く驚いた。 また5年前ぐらいにあったときに ノラジョーンズ 、 ジャックジョンソン はえ~な~って神戸の居酒屋でしんみり

ソウルメイトとの音楽遍歴⑭

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 前回振り返ったポールウェラーをきっかけにしてボクはR&B、ソウル、モッズに傾倒していった。その時はあまり気にしていなかったけど、小西康陽などの渋谷系と言われるトレンドもあってレコード屋さんに行けば沢山のレコメンドがあった。レコード屋さんのスタッフのイチオシは昔のものから現在進行形まで様々。なかでもアシッドジャズの代表格、 コーデュロイ はボクの心をくすぐるものだった。これももちろんキミに教えてもらった。アシッドジャズといえば当時は ジャミロクワイ が最高峰、もちろんジャミロクワイも聞いたけど、コーデュロイがボクの中では1番。 最初は 1stアルバムdat man cat を聞かされてinstrumentalだったので戸惑った覚えがある。なぜなら歌モノばかり聞いてきたから。しかし このアルバム からキャッチ―なメロディーの歌がでてきてアルバムタイトルの曲は Out of here にはまったね。今でも大好き。車通勤中に聴きまくったのは 次のアルバム 。ボクのコーデュロイNo1の evolver が入っているんだ。これは忘れられない曲。 コーデュロイも含めてボクの中ではオルガンサウンド≒モッズ、ブリット、大好きなサウンド、となっていったのです。完全な偏見です。 たとえばこの シェリルクロウ の my favorite mystake ( このライブ映像は最高のメンバー )の間奏のオルガンはボクにとってはモッズにしか聞こえない。 いくつかあげてみよう。 前回のポールウェラーからは Broken stones 教えてもらって印象深かったジョージフェイムの sunny ブッカーT&The MG'sの Mrs.Robinson ブルースブラザーズからはレイチャールズが壊れたオルガンで演る shake your tailfeathers 大御所が出たのでアレサフランクリンがスティーブンスティルスをカバーした Love the one you're with 忘れちゃいけないスティービーワンダーの Don't You Worry 'Bout A Thing 、良い時代だ、こんな映像をみられるなんて! staxレーベルからはナイチンゲールズの Don't Let A Thing Go モッズにかかせないスモールフェイセズの A

ソウルメイトとの音楽遍歴⑬

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ボクが知っているキミの音楽に欠かせない存在は ポールウェ ラー 。95年から99年にかけての5年間、キミに大きな影響を与えたキーパーソンだと考えている。 初めて教えてもらったのは、大ヒットした3枚目のソロアルバム「 Stanley Road 」のリリースしたころ。キミは流行るよりも前から聞いていたようだけど、ボクに教えてくれたのは流行った頃で、その勢いに乗る感じでバンドでもコピーしよう!となった。しかし、キミらしい拘りというか、コピーした曲はアルバムには収録されていなかった You Do Something To Me というシングルカットの曲のB面のカバーソング My whole world is falling down というマニアックな曲。 元はWilliam Bellという人の曲。ボクはキミに教えてもらうとすぐに原曲をあたりたくなる癖があって、 William Bellのベスト盤のCDを買って原曲 にあたった。ポールウェラーバージョンのほうが好きだったけど、そのアルバムで「アタリ」を見つける。William Bell & Judy Clayの My baby specializes 。さっそくキミに「ええ曲があった♡」と話すとキミはすかさず「それよりもこっちのほうがええで!」って Delaney & Bonnieのカバーバージョン を教えてくれた。 その頃かな「レコードレーベルで見分けるとブラックミュージックはおもろいで」と教えてくれたのは。これは Staxレコード つながりで、Delaney & Bonnieはクラプトンやブッカー・T&ザ・MG'sなどと縁が深い。とりわけボクはベースだったのでドナルドダックダンのベースラインが大好きになって今度は ブッカーは・T&ザ・MG'sのアルバム を買ったりした。 おっと、今回の話題はポールウェラーだったね。 ボクは3枚目→2枚目→1枚目と聞き込んでいった。ボクのお気に入りは前述の「Stanley Road」からは「 Whirlpools' End 」ベースラインが大好きでコピーしたなぁ。それよりも大好きだったのは2枚目の「 Wild Wood 」のLive版「 Live Wood 」での「 Has My Fire Really Gone Out? 」