まだ・・・

まだ、分かりかねること。

「我思う、ゆえに我有り」といった言葉があるが、そうは言い切れないと思う。
穿った考え方では「思っている」と錯覚しているだけかもしれないといえる。
ひょっとしたら何かによって「思わされている」かもしれない。

五感がすべてというの考え方もあろう。
個人単独としては五感でいいのかもしれない。

ただし、どのように感じているかを他人と共有するのは完璧には無理だ。

人は1人では生きられない。

人と人との間にはある程度の共通感のようなものはあるが、
それはおそらくほとんど後天的、つまり何らかの知識・知恵による解釈が入っている。
そもそも、五感を言葉で言い表すことがほとんどだ。
このこと事態が、言葉の制約をうけている。

だとすると言葉が重要な役割をもっている。

これらに詳しい学問や文献にあまり触れていないため、
浅知恵ではあるが、この先もずっと考えていくことになろう。

まだまだ、学ばなければならないと秋の風に触れて思った。

語りえないことについてはやはり沈黙しなければならない。(って沈黙してないけど)

コメント

  1.  言葉とは共通認識を持つために作り出された道具にすぎず、文字よりは歴史があるため思いを含め表現出来る範囲は広いけれども未だ未完成のものと考えるべきでしょう。

     感情や思考を言葉に変換しただけであなたの五感で感じたものとは違うものになってしまいます。ましてや相手の持つフィルターがどういう構造なのかを理解出来ていなければ言葉が通じる事がかえって障害になってしまいます。

     物理的に同じキズを負ったとしてあなたと同じ痛みを相手が感じている保証はどこにもありません。これは色にしても同じ事で、同じように弁別出来ていても見えている映像が一緒だとは思えません。

     言葉と言う共通認識の精度を高めるために決められ人工的に作られたルールが辞書。私には、思いは人それぞれに違うと理解わかるだけで十分な気がします。

     「我思う、ゆえに我在り」は、自分の思考は自分の意思かどうかを問うたのでは無く、少なくとも思考している何かは存在すると言っているに過ぎないのです。言葉で思考する限り、あなたの行動は全て外部からの影響を受けていますが、どこがいけないのでしょう。

     あなたが外部から影響を受けるのと同じように外部に影響を与えています。人間だけでなく生物、無生物の全てが社会の構成要素の一つであり、その連携によって社会が成り立っていると考えれば、自ずと何をすべきが見えてくるのでは無いでしょうか。

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  2. コメントありがとうございます。

    >私には、思いは人それぞれに違うと理解わかるだけで十分な気がします。
    そうですね。私は他人のことは分かりようがない(だからといって思いやりがないわけではありません)と思っています。人の気持ちが分かるというのは言い過ぎで、分かろうとする思いやりはあることを言うのだと思っています。

    デカルトの言葉はご指摘のとおりですが、なんだかしっくりこないのです。

    >・・・自ずと何をすべきが見えてくるのでは無いでしょうか。
    まだまだ、見えていないものばかりで・・・。
    ありがとうございます。

    返信削除

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